2022年2月24日に、ロシアがウクライナに軍事侵攻を始め約1年半が経過します。
当時は大々的に告げられたニュースも、次第に報道が少なくなり、今では新聞の小さなコーナーだけに追いやられています。
当初は、きっと多くの人がこう思ったに違いありません。
「本当の話なの?」
「まさか今の時代に戦争をしかけるなんて思ってもみなかった」
「私たちにも危害は及ぶのかな?」
ゴスペルを歌いに来ている生徒さんの息子さんで、小学6年生のH君がいます。私はH君とこれまでに何度か会ったことがあり、虫が大好きな彼のことを「博士くん」呼んでいます。
親御さんが言うには、ロシアがウクライナを侵攻している映像を見て、博士くんは、テレビの前から離れられなかったそうです。博士くんのことが心配になるほどテレビに釘付けになっていたとか。自分と同い年位の子どもたちが親と離れ離れになり、泣き叫ぶ様子を見ていたのです。
テレビを見た後、博士くんはこう言っていたそうです。
「何か僕にできるかな?」
祈り
戦争が始まったばかりのとき、とても印象的な映像がニュースで流れていました。
それは、地下鉄のような場所で、子どもから大人までが祈りながら讃美歌を歌っている様子です。不安と恐怖のただ中にあって、クリスチャンたちが一つになり、祈りをささげているのです。
私は映像を見ながら、「自分がもしもそにいたとしたら、同じような行動を取れるだろうか••••••」と考えさせられました。神に賛美を歌う気持ちになれるだろうか、それとも日々のニュースに恐れてばかりいるだろうか。
そんなとき、私の中であるアイデアがひらめきました。
「そうだ! 博士くんに祈ってもらおう!」
博士くんにもこの映像を見てもらい、ウクライナの人のために祈ってもらうこと。「何かできないかな」と思っても、今は具体的に何もできないかもしれない。でも、映像の彼らのように「祈る」ことはできる。離れていても博士くんができること。それは、ウクライナの人々のために祈ることなんじゃないかと。
祈り方がわからないかもしれないと思い、こんな風に祈ってみてと伝えることにしました。
「天の父なる神さま、ウクライナの人たちに平和がありますように。戦争が終わりますように。イエスキリストの名によって祈ります。アーメン。」
その後親御さんから、「博士くんは伝えた通り祈ってくれましたよ」と笑顔で感想をいただきました。
ウクライナから約8000km離れたここ日本で、ウクライナの彼らと同じ「アーメン」を祈ることができたのことに、不謹慎ながら感動を覚えた一瞬でした。
トートバッグ
ウクライナの危機は収まるどころか、益々エスカレートしていきました。
ウクライ国外へ避難する人々も現れ始め、ここ日本にも避難する人たちがでてきました。しかもなんと偶然に、ゴスペルの生徒さんに彼らを受け入れている方がいたのです。どうやら、キリスト教会が中心となって働き支援しているとか。
私が心を痛めたのは、ウクライナに親を残して避難して来た人の中には、中学生か高校生くらいの子どもまでいると言うことでした。
自分が中学生のときに、知らない国に避難させられたとしたらどうでしょう。行きたい国に留学するわけではありません。いきなり親許から離され、言葉もわからない国にたどり着くわけです。
どこにぶち撒けて良いかわからない苦しみ、怒り。彼らからするともちろん、相手のロシアに投げつけたいけど、今はそんなこと言ってられない。祖国の親が心配しつつも、新しい地で生きていかなくてはならないのです。
日本では、避難民に対して一年間のサポートがあります。その意味は、一年を過ぎるとサポートが切れて自分の力で生活費を稼がなければならないということです(2023年は日本財団からのサポートが延長され、生活費がいただけることになりました)。
そこには言葉の壁があります。
日本人の私でさえ日本語が難しいと思うのに、一年で日本語をマスターできるでしょうか。日本語と言っても、ひらがな、カタカナ、漢字と3種類もあるのですからウクライナの人たちにとっては、なおさら難しいことでしょう。
そんな中彼らは、置かれた場所で咲こうとしていました。デザインが得意な子は、ipadで描いた絵をトートバッグにしたり。大学に通えない子は、ウクライナのオンライン授業を受けて勉学に励んだり。またマクドナルドでアルバイトを始めて生活費を稼ぐ子もいたり。
2022年12月、私も博士くんのように「何かできないか」と思わされていたので、彼らが作っていたトートバッグを購入することにしました。購入した金額はすべて、ウクライナから避難してきた人たちの生活費に充てられるとのこと。博士くんにもその話を伝えたら、絶対買いたいとのことで早速彼にもおすそわけ (小学生なので支払いは親御さんです)。
チャリティコンサート
「愛の反対は無関心だ」と、マザーテレサは言いました。相手の痛み、相手の悲しみを思えることは、その人の心に愛があるという表れのような気がします。
博士くんの心にも愛が溢れているからこそ、「何か僕にできないかな」と思えたのだと思います。
何かできないかなと思えれば、祈ることができます。
祈ることができれば、具体的なトートバッグを買ってサポートするという行動に移ることができます。
そしてさらに、ウクライナの人と一緒に交わり、何かを作り上げるプロセスを共感すること。それによって、「もうあなたたちは客人ではなく、互いに支え合うべき人同士だからね」ということを、分かち合いたいのです。
受けるよりよりも与える方が幸いである。
新約聖書 使徒の働き20:35
10月14日のチャリティコンサートが、家族から離れ日本という異文化で生活する彼らの支援になることを願います。
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