ゴスペルとの出会い
ゴスペルとの出会いは、高校生のときでした。当時、洋楽が好きだったので新しい曲を仕入れるために、ラジオをよく聴いていました。今のように「洋楽 おすすめ」とインターネットで検索できなかったので、努力して好きな曲を探さなければなりませんでした。番組名はもう忘れてしまいましたが、ボズ・スキャッグス、ビリー・ジョエル、ビートルズの曲など、その番組をきっかけに知ることができた記憶があります。しかし問題は、その番組で曲が流れるとき、DJが一回しかアーティストと曲名を言ってくれないことです。
「OK、それではお聴きください。ボズ・スキャッグスで《We’re All Alone》です。」
「もうちょっとゆっくり話してよ!」と思いながらも、曲が流れる前に紹介されるアーティストと曲名を聴き取り速記しないといけません。もちろんアーティストと曲名は英語ですから、紙と鉛筆を片手に戦闘態勢です。「ボク・スカンクス?」と間違えて書いたこともあります。当たり前ですが、翌日CDショップでボク・スカンクスを探しても見当たるわけがありません。「あーいい曲だったのに、もう出会えない……」と、何度も敗戦を喫したことがあります。
ある日いつものように、ラジオで聴いた曲をレンタルしようとCDショップに行ったときのことです。ふと、GOSPELという言葉に目が止まりました。確か、ワールドミュージックのコーナーに置いてあったと思います。(今でもゴスペルは、CDショップでワールドミュージックというジャンルに肩身狭そうに置かれてあります。)私はその頃、学内でバンドを組んでギターボーカルをしていたので、「色々なジャンルを聴いておくことは勉強になるな」と思い、何となく良さそうに見えたゴスペルのアルバムを1枚レンタルすることにしました。
今ではハッキリと覚えていませんが、おそらくそのCDは、「Kirk Franklin(カーク・フランクリン)」という人の『Kirk Franklin & the Family』というアルバムだったのではないかと思います。
帰宅してCDプレイヤーにセットし、いつものように好きな曲を探そうと聴き始めた途端、すさまじい衝撃が走りました。涙が止まらなくなってしまったのです。
「一体この音楽はなんだ?」
涙が止まらないだけでなく、心の奥底というか深い部分をドンドンとノックされているような感情です。なぜそのような衝撃が走ったのでしょう。それまで聴いていたボズ・スキャッグスやビートルズとゴスペルとでは何が違うのでしょう。
衝撃を感じた理由
1. 曲のイントロや途中でMCがある
まず違いの1つ目に、ゴスペル音楽にはイントロや曲中でMCがあることです。例えばビートルズの名曲に《Yesterday》という曲があります。このイントロ部分で、ジョン・レノンがこんな風に話していたとします。
「さあ、心苦しんでいる人、困難にぶち当たっている人、聴いて。必ず夜は明けるから。さあ神を見上げてごらん。」
そんなことあるわけないと思われたでしょう。私も同じです。イントロでMCのある曲なんて聞いたことがありませんでした。でもゴスペル音楽にはあるのです。もちろん全て英語なので、高校生の私には何を話しているのかわかりませんでした。でも話している人は、とにかく熱かったのです。何か切羽詰まったような、それでいて温かさを感じる言葉だったのです。
2. 声の音圧がすごい
2つ目の違いとして、声の音圧がすごいことです。当時、洋楽のロックやポップス、R&Bなども聴いていました。それらの曲の多くは、1曲のほとんどを一人が歌うか、多くて3人くらいまででしょう。ところがゴスペルの場合、10人から30人の人が一斉に歌っています。しかも一人ひとりが、魂から叫んで歌っているようで、その音圧はスピーカーを超えて響いていたのです。
3. 曲中で泣いている人がいる
3つ目の違いとして、曲中で泣いている人がいることです。みなさんの中でこれまでに、泣きながら歌っている曲を聞いたことはありますか? 実際に想像してみてください。みなさんがCDを作る側だとします。レコーディングスタジオに入って、練習した曲を録音するわけです。歌詞を間違えないようにとか、音程を外さないようにとか考えて歌うでしょう。または気持ちを込めたとしても、レコーディングスタジオで泣くということはあまりないと思います。ゴスペルの場合、イントロから人が泣いたり、誰かに語っていたり、また曲中で叫んでいる人がいたりするのです。
今冷静に考えて、他の洋楽と違う点は上記のように挙げられると思います。しかしまだ残る疑問があります。
「彼らはなぜ泣いているのだろう? いや、私はなぜ泣いているのだろう?」
2人の自分
高校生の頃、私の中には2人の自分がいました。1人目は、何でもできるという「イキガリNOBU」、もう1人は、生きる本当の意味を探す「迷える子羊NOBU」です。
イキガリNOBUは、努力をすればなんだってやり遂げられると考えています。実際に、スポーツと音楽が好きだった私は、バスケット部と軽音部の両方に所属していました。今の私しか知らない人は、私が文化系一本で歩んできて、小さい頃から音楽教育を受けた少年だったと思うようですが、実際は音楽よりスポーツで進学を考えていたほどです。
確かに小学3年生くらいの頃までピアノを習っていました。しかし、外で遊びたい欲求の方が勝り、それまで習っていたピアノを放棄。ピアノよりも水泳、サッカー、バスケットなどスポーツの方に明け暮れていました。そして、何だって努力すればやりたいことは叶うと思っていました。
軽音部の方だって頑張りました。文化祭間近になるとバンドを組んで、放課後や土日に練習。文化祭本番では、スポーツ系の仲間たちが盛り上げてくれ、校内でも人気のバンドになりました。ところがイキガリNOBUのもう一面に、迷える子羊NOBUがいるのです。
迷える子羊NOBUは、自分は何のために生きているのだろう。生きるって何だろうと真剣に考えていました。良い学校に行くことが大切なんだろうか、学力がこの世の中の全てなんだろうか。私がいて誰かの役に立つのだろうか。そして、小さいときから自分がしてきた色々な悪いことに対する罪悪感が自分を襲うこともありました。そんな迷える子羊NOBUを隠すかのように、イキガリNOBUが存在していたのです。
ゴスペル音楽はそんな私の心を見透かすかのように、ノックしてきました。自分のしてきた数々の罪に対して言葉にならないほど大きな悔い改めが押し寄せてきたのです。
そして涙が止まらなかった。
不思議なことに、英語の歌詞を全て理解できていなかったのにもかかわらず、そのような気持ちになったということです。普通ならば、歌詞の言葉が心に響くはずです。でも当時は歌詞を聴いていても英語がわかりませんでした。それなのに、感動し心が動かされたのです。ここに歌の大切な要素が含まれていることに気がつきました。
もし歌う人が、本当に心から歌っているならば、歌詞が母国語でなくても伝わるのだということです。
ゴスペルの世界が私の心に響いたのは、歌っている人々の熱い信仰による歌声だったからなのです。
今はスマホで音楽を聞いています。特に車に乗るときはいつも、アメリカのラジオ「Black Gospel Radio」を流しています。このラジオ番組の良いところは、ゴスペルの古い曲から新しいコンテンポラリーの曲まで幅広く紹介してくれることです。「お、いい曲だな」と思ったら、コンサートで歌ったりゴスペルレッスンで指導したりします。昔も今も、好きな曲の探し方はあまり変わらないのかもしれませんね。
イキガリNOBUと迷える子羊NOBUは、今でも私の中で行ったり来たりを繰り返しています。でもその度にゴスペルは私を、いつも正しい道へと軌道修正してくれている気がします。もしも私と同じような人がいるとすれば、ぜひその方にもいつか、ゴスペルに出会って欲しいと願っています!
