祖母の言葉には重みがある。研究家が使う聞いたことのない言葉でなく、熟練家がドヤ顔で語る言葉でもない。ありふれた日常の一コマで耳にする言葉だ。
毎週日曜の朝、祖母は教会の礼拝に参列しオルガンの奏楽をしている。いつもお洒落な服装で教会にくる様子に、心の若さを感じる。先日の日曜も、祖母はマニキュアを塗って参列していた。礼拝後、祖母を教会から自宅まで車で送り届けた時、助手席に座った祖母が不意にこう呟いた。
「ほんまありがとうで。」
祖母の言葉をしばらく考えていた。ありがとうだけで良いのに、「ほんま」という言葉が付属している。なぜだ。そんなに感謝されて良いのか。私は色々考えた結果、シンプルにこう応えることにした。
「いや、当然のことしているだけやで。」
祖母はすぐさまこう言った。
「全部、してくれたこと覚えてるからね。」
さらなるカウンターパンチをくらった。なぜなら「そうか、ありがとう」という言葉が返ってくると予想していたからだ。私は祖母を自宅まで送っているだけだ。しかも教会から自宅まで車で10分程度。なんなら私の帰り道ルートでもある。つまり私にとって全く苦ではない。しかし、祖母にとってこの送迎は、一大イベントであり感謝の気持ちを伝えたいと言うのだ。そして祖母は私がしたことを全部覚えていると言う。
見慣れた道を車で走らせながらふと、教会で祖母を車に乗せた際のことを思い出した。祖母は杖をついて歩いているため、乗車するにもかなりの力と時間が必要だ。最初、後部座席に乗ると言うので挑戦してみたが、小さい車の後部座席に足を上げて乗車することができなかった。祖母は「はあはあ」と息を切らし4〜5回挑戦して諦め、助手席に座ることになった。
車に乗るという私にとって苦でないことが、祖母にとっては痛みを伴った試練となる。帰り道に送り届けるという私にとって何でもないことが、祖母にとっては大きな感謝になる。一方は痛みと感謝が多い一日を過ごし、もう一方はぼうっと生きて感謝のない日を過ごす。痛みと試練は神様に思いを向けうる感謝の時なのかもしれない。果たして私はどちらが良いのかと、祖母の重い言葉に考えさせられた。